これまで気候変動による経済的被害は、その因果関係が曖昧であるため、政治的・道義的な議論の範疇にとどまっていました。しかし、2026年3月にNature誌に掲載された画期的な研究(Burke et al.)は、この認識を根底から覆し、冷酷な会計帳簿を世界に突きつけました。計量経済学のGDP変動データと最先端の気候モデルを組み合わせることで、「誰の排出が、誰の国のGDPを、いくら下げたか」という二国間の帰責(Attribution)が、ついに科学的に証明されたのです。これは、地球温暖化によって引き起こされる具体的な経済的損失が、特定の排出国に法的に帰属しうる時代が始まったことを意味します。
この研究が明らかにしたメカニズムには、二つの深刻な構造が含まれています。第一に、排出による損害の「極端な不均衡」です。1990年以降の米国のCO2排出は、世界全体に10.2兆ドルの経済的損害をもたらしました。驚くべきことに、そのうち米国内の被害は3兆ドル弱に過ぎず、残る7兆ドル以上は他国、とりわけ低所得国へと「輸出」されています。例えば、米国単独の排出によって、インドは約5,000億ドル、ブラジルは約3,300億ドルのGDP損失を受けています。これは、先進国の排出がグローバルサウスの経済成長を直接的に阻害しているという明確な科学的証拠となります。第二に、この損害が持つ「複利構造」です。大気中に滞留するCO2は長年にわたり温暖化を進行させ続け、毎年の経済成長を削り取ります。過去の排出による経済的損害は、単利ではなく複利のように雪だるま式に膨張していくメカニズムを持っています。例えば、サウジアラムコが1988年から2015年にかけて排出したCO2による2020年までの損害は3兆ドルですが、これが2100年までには20倍以上の64兆ドルにまで膨張すると試算されています。
しかし、この科学的帰責が世界に突きつけられるのと時を同じくして、米国国内では全く逆方向の動きが加速しています。トランプ政権は、温室効果ガスが公衆衛生を危険にさらすというEPAの2009年の「Endangerment Finding」の撤回を推進し、連邦レベルでの気候規制の法的根拠を根本から解体しようとしています。これは、Clean Air Actに基づく排出規制の制度インフラ全体の放棄を意味し、米国政府が気候債務の認識と責任を回避する姿勢を明確にしています。これに対し、24州と10以上の都市からなる自治体連合が即座に連邦政府を提訴し、規制権限の維持を求めています。つまり、国際社会が科学的根拠に基づいて気候債務の「取り立て」を始めようとしている一方で、米国連邦政府は国内の規制基盤すら解体しようとし、その結果、米国内の気候規制の権限自体が司法の場に持ち込まれるという、前例のない「乖離」が生じているのです。
この科学的帰責の確定と、連邦政府による責任回避・規制撤回の「乖離」は、現在、米国資産の長期的なリスクプロファイルに適切に織り込まれていない構造的なミスプライスを引き起こしています。投資家は、以下の3層のリスク上昇をシナリオに組み込む必要があります。第一に、気候訴訟リスクの拡大です。途上国政府、国際機関、さらには気候変動を扱うファンドが、この帰責の科学的エビデンスを武器に、米国政府や多国籍企業(Carbon Majors)に対して巨額の賠償を求める法的アクションを起こす可能性は高まる一方です。第二に、規制なき移行がもたらす非対称なリスクです。EPAのEndangerment Finding撤回は、短期的には米国内の排出コストを削減するかもしれませんが、規制の法的予見可能性を著しく低下させます。連邦規制が司法の判断で突然復活するシナリオや、州レベルでの規制強化が非対称に進行するシナリオは、石化・エネルギーセクターへの投資判断において、これまでにないボラティリティを生み出します。第三に、国際的な地位リスクが資本コストに転写される経路です。米国が国際的な気候約束から離脱し、損失補償の責任を拒否し続ける場合、途上国との外交摩擦や多国間機関での影響力低下が加速し、これは米国債や米ドル資産のソブリンリスク評価に、現在は市場にほぼ織り込まれていない非財務的な下方圧力をかけることになります。気候債務の計量化が始まった一方で、米国の政策機構はその負債を認識するどころか、認識の制度的前提すら解体しようとしている。この乖離が縮小されるのは、訴訟、国際的な圧力、あるいは政権交代のいずれかによるでしょう。その時点において、現在の資産評価は構造的な修正を余儀なくされる可能性が高いのです。