2026年3月、Stanford大学のMarshall BurkeらがNature誌に発表した研究は、一つの不都合な会計帳簿を世界に突きつけた。米国は1990年以降、自国の温室効果ガス排出によって世界全体で約10兆ドル相当のGDP損失を引き起こした——歴史上いかなる国よりも大きな数字である。中国の9兆ドルがすぐ後に続く。
この10兆ドルという数字は、単なる学術的計算ではない。気候交渉の場で「Loss and Damage(損失と損害)」として途上国が求めてきた補償の対象を、初めて二国間の帰責構造として定量化したものだ。インドへの損害は約5,000億ドル、ブラジルへは約3,300億ドル——これが「誰が誰にどれだけ損害を与えたか」の初版台帳になる。
崩壊する規制基盤と拡大する法的包囲網
同じ2026年3月、全く異なるベクトルの動きが米国内で進行していた。トランプ政権はEPAによる2009年の「Endangerment Finding(温室効果ガスが公衆衛生を危険にさらすという科学的認定)」を撤回し、米国連邦気候規制の法的根拠を根本から切り崩した。
これは化石燃料増産路線の言説の延長にとどまらない。Clean Air Actに基づく排出規制の制度インフラ全体の解体を意味する。
これに対し、24州・10都市を超える自治体連合が即座に提訴した。訴訟の争点はMassachusetts v. EPA(2007年)の先例をどこまで維持できるかであり、最終的には連邦最高裁の判断に委ねられる可能性が高い。つまり、米国の気候規制権限そのものが司法に持ち込まれた状態にある。
内部・連邦(行政府)→ 規制撤廃・国際約束離脱・補償拒否を加速
内部・州(司法)→ 連邦解体に対する法的抵抗が拡大
何が実際にミスプライスされているか
この構造から導き出される含意は3層ある。
① 気候訴訟リスクの拡大
Nature論文は、気候損害の帰責構造を科学的に確立した最初期の研究の一つになりえる。今後、途上国政府・国際機関・気候変数を扱うファンドが同様の帰責研究を訴訟証拠として活用しようとする動きが出てくることは合理的に予測できる。現時点で米国政府は法的責任を否定するが、科学的根拠が積み上がるほど将来の交渉コストは上昇する。
② 規制なき移行リスクの非対称性
EPA Endangerment Finding撤回は、米国内の排出規制コストを短期的に下げる一方、規制の法的不確実性を大幅に高める。機関投資家にとっては、石化・エネルギーセクターへの投資判断において連邦規制の予測可能性が著しく低下したことを意味する。訴訟の帰趨次第では規制が突然復活するシナリオもある。
③ 国際的な地位リスクの資本コストへの転写
米国が国際気候約束から離脱し、損失補償の責任を拒否し続ける場合、途上国との外交摩擦・多国間機関での影響力低下が続く。これは、米国政府債・米ドル資産のソブリンリスク評価に非財務的な下方圧力をかける経路として、現在はほぼ市場に織り込まれていない。
「気候債務」の計量化は始まった。しかし米国の政策機構はその負債を認識するどころか、認識の制度的前提すら解体しようとしている。この乖離が縮小されるのは訴訟・外圧・政権交代のいずれかによる——その時点において、現在の資産評価は構造的に修正を強いられる。